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探偵ごっこ?

あまり需要のない話題で失礼します。

「伊能でGo」をブログに載せたことから、
伊能忠敬が加古川で泊まった場所を探すことになりました。

ん、それは「伊能でGo」で、分かるんじゃないかって?

いえ、実は、「伊能でGo」で示されている宿泊所は半径500m以内ということで、
ピンポイントではないのだそうです。

ということで、今日は徒歩で寺家町に出かけていきます。
81215 (1)

寺家町商店街は、昔の西国街道ですが、道幅はそんなに変わっていないそうです。
参勤交代の行列も、ここを通っていたらしいです。

頼りは、「伊能でGo」システム管理の方から送られてきた忠敬さんの日記ですが、
難しい、読めませんねー(笑)。
忠敬日記
でも、書き下し文があるので大丈夫です。

まずは、「まる京」さんで話を聞きました。
まる京さん
シャッターがまだ半分閉まっているのは、私が早く行き過ぎたからです(笑)。

「まる京」さんは、確かに脇本陣で、特に長崎との関係(取引)が深く、
宿泊施設になっていたみたいで、宿帳も残っていました。

ただ、残っていた宿帳は、残念ながら長崎関係の分だけでした。
(「まる京」さん宅の宿帳は、書き下し文がないので解読困難でした。)

まー、脇本陣であったことは確認できたので、
文化9年に伊能忠敬一行が泊った場所で間違いないと思いました。

次は文化6年に泊まった本陣のあった大庄屋「中谷家」ですが、
(当時、間口28間(50m)もあったそうで)今は何軒かのお家になっています。
玉岡路三郎邸

中谷さんはどこかに引っ越されたそうなので、話を聞くことはできませんでした。

そのまま西へ行くと、姫路藩の藩役所だった「陣屋」さんがあります。

この藩役所は1705年建造で、大名行列の際、大名を歓待する場所として利用されていました。

隣の「樹悳堂(じゅとくどう)は、明治18年に、明治天皇が休憩場所として利用された所です。

中に入ることはできませんが、外から見ることはできます。
81215 (4)
「樹悳堂」は、松の盆栽を陳列していたことから明治天皇が名づけられたそうです。

江戸時代、この寺家町周辺は「加古川宿」と呼ばれ、大勢の宿泊客でにぎわっていました。

参勤交代の行列も、ここで休んでいたのでしょうね。

話は飛びますが、この西国街道を東に500mほど行くと、「胴切れ地蔵」があります。
81215 (12)

なんでも、この地蔵さんを厚く信仰していた人が、
うっかり大名行列の前を横切ったため、供侍に胴体を真っ二つに切られてしまったのです。
ところがふと気が付くと、自分の胴体はなんともなく、信仰していた地蔵さんの胴が
二つになってしまっていたという話です。

地蔵さんを後ろから見ると、こうなっています。
81215 (13)

それ以後、ますます信仰されるようになり、花が絶えることはありません。

で、話は戻って、本陣の大庄屋「中谷家」ですが、
忠敬さんの日記では「中谷」ではなく、「鍵屋権衛門」となっています。

今日、話を聞いた誰一人「鍵屋」という屋号は知らなかったので、
古いことならお寺さんにということで、本陣のちょうど南にある光念寺を訪ねました。
81215 (5)

残念ながら住職はお留守で、留守番の方しかおられず、
すごく恐縮されていましたが、アポなしで行った私が悪いのです。

でも、まー、「鍵屋」という屋号はこの辺りにないことから、何かの聞き間違いでしょうね。


今回、「伊能でGo」のおかげで、いくつも再発見がありました。

ニッケパークタウン近くで今は福祉会館になっている「常住寺跡」、
鶴林寺と同じく聖徳太子が開基ですが、慶応元年(1389)に足利義満が泊ったそうですよ。
DSCF1452.jpg

蕪村と並ぶ俳人、松岡青蘿が住んでいたのは光念寺で、お墓もありました。

自転車ばかりでなく、たまには徒歩もいいもんですねー。

加古川の人しか興味のない話題で申し訳なかったのですが、
いつか加古川に来られた時は立ち寄ってみてください。

いやー、今日は、とってもまともなブログになってしまいました。
(まじめすぎて、おもろないどー。)

最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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コメント

GGチャリダさん、おはようございます。

え~まあ、たしかに土地勘も
聞いたこともない陣屋のお話ではあります。

しかし、ちゃんと現在の方にお話を聞かれてるんですね、すばらしい。

え、私?
さっそく使って行ったんですけどね~
聞ける場所は無かったです。

いやー私も、ここまでしようとは思っていなかったのですが、
アプリ開発者の方から日記のPDFをもらったものですから、
ついつい入れ込んじゃいました。
でも、いろんな話を聞かせてもらい、古文書などまで見ることができて、
江戸時代にも日本が金を輸出していたとか、知らないことが分かった面白かったです。

 GGチャリダさん ありがとうございます。興味深く読ませていただきました。
 実は伊能忠敬研究会に「鍵屋」の一族の方(分家らしい)がいらっしゃるそうで、中谷家との関係など、問合せ中とのことです。新しいことがわかりましたら連絡します。
 今回の件で、脇本陣が確定でき、子孫も健在ということが確認でき、わずかですがデータベースの完成度がアップしました。このようなことが全国に広がりより完成度が高められればと思っています。

えー?
「鍵屋」関係の方がおられるのですか?
その方が、加古川と関係があれば、謎が解決しますね。
脇本陣の「まる京」さんの御主人は、忠敬一行が宿泊したと知って、驚いておられました。
そして日記をコピーさせてくださいと言われたので、そのままお渡ししました。
いろんな人からいろんな話が聞けて、私も、楽しかったです。

「伊能でGO」、地元で忠敬さんが宿泊した場所を、前回では「文化8年に宿泊した所は本陣だった」と書きましたが、自分は勘違いしたみたいです。
よく見ると「伊能でGO」では、「宿泊家:脇本陣 臼井又右衛門。文化8年12月27日。無測。」と書いてありました。つまり、本陣ではなくて、脇本陣だったのです。
本陣は大名、公家、幕府役人などの宿泊所で、脇本陣は本陣を補佐する役目の所です。
わが町においては本陣、脇本陣ともに各1か所ずつ設けられていて、本陣は立派な建物で、部屋が沢山あり、庭もあったそうです。
今は建物は全てなくなっており面影はありません。街道の脇から竹垣で囲った細い道が延びていて、奥にはこじんまりとしたスペースがあり、本陣跡の説明文の碑が建ってます。もとはもっと広い敷地だったと思われますが、本陣の役目を終えて間も無くして建物をなくしたとの事で、本陣について知っておられる方はいなくなったようです。
この本陣跡の東隣にコンクリート地の空き地があります。数十年前まではここに八百屋があったそうです。その後引っ越したみたいで、跡地をきれいにコンクリート地にしたとの事。
この空き地の隣に古い木造の家が2件並んでます。見た目がそっくりな建物で、ピッタリとくっ付くようにして建ってますが、1件ではなくて、違う御家族の方の家が2件です。
この2件の建物の、東側の建物が脇本陣であった場所です。西側の建物は本陣とは関係ない民家です。つまり本陣の隣が空き地で、その隣が民家で、その隣が脇本陣だったということです。更にその隣が違う御家族の民家です。
「伊能でGO」の地図では、忠敬さんが宿泊した脇本陣の位置が、1件ずれていて、脇本陣の隣の建物に指定されてますね。
更にグーグルでの脇本陣の横の長さが間違ってます。前の豆腐屋の前までの長さがあるはずですが、実際の長さよりも短い建物になってますね。
偶然、脇本陣の建物に住んでおられる方に会ったので忠敬さんのことを話すと、びっくりなさってました。
「伊能でGO」では文化3年の宿泊地を「宿泊家:本陣鵜飼喜左衛門。文化3年10月23日」とあります。この町の本陣も脇本陣も1件ずつしかなかったはずだそうです。どうしてここにも本陣があるのだろう。この場所、調べてみます。

おはようございます。
調べ始めると、疑問が次々と出てきて、なかなかはまっちゃうもんですよね。
私も、昨日、違う情報を手に入れたので、聞きに行ったところです。
私の場合は、忠敬の日記に本陣「鍵屋権兵衛」となっているのに、聞き込みでは、そのような人物が実在していないことにあります。
現在、それを解決中です。

この上にコメントされている「Inopedia 横溝」さんは、「伊能でGo」の開発者の方から送られてきた日記で足跡の確認中です。
「伊能忠敬e資料館」に登録されたら、いろいろ情報も入ってくると思います。
私も、横溝さんに言われて、登録したところです。
伊能忠敬研究会としては、そういう情報を集めて、より完璧な資料を作りたいみたいですよ。

「伊能でGO」です。文化3年に忠敬さんが宿泊したとされている、今は郵便局が建っている場所を調査中です。「伊能でGO」では、「本陣」と書いてあります。
わが町には本陣と脇本陣がそれぞれ1か所ずつあり、忠敬さんは文化8年に脇本陣に宿泊したことになってるのですね。
ところが忠敬さんが文化3年に宿泊した地域に本陣がたしかに存在したかはわからないです。すでにこの地域は現代風の普通の民家が建ち並んでます。数十年前までは個人の店が並んでいて、スーパーが一般的でなかった時代の人々の生活必需品や食品などを買い求めて、それなりに賑やかだったそうです。
スーパーやホームセンターの規模が充実すると、人々がそちらへ流れた為、個人店に人が少なくなりました。店を閉じて普通の民家になったのです。
郵便局が建ったのは、そんな民家にうまった頃のことでした。
すでに昔の面影はなく、昔のことを知る人もほとんどいないようです。
数日前に図書館で調べたところ、当時の街道沿いを中心に、馬や人足を手配する伝馬があり、西方地域の西伝馬と、東方地域の東伝馬があったらしいです。
忠敬さんが文化3年に宿泊したとされている場所からは、西伝馬が近くにあったみたいです。そして短期間ではあったみたいですが、この辺りに本陣があったとされています。
忠敬さんが文化8年に宿泊した脇本陣とその隣の本陣を更に補佐する役割があったとか。ところがこの本陣がどの場所にあったかはわからないんです。
そこで町の資料館に訪ねてみました。調査担当の方は、他の調査作業で忙しい為その次になるから、年が明けた頃には取り掛かれると思うとの事。
なので連絡待ち状態です。わかったことがあったらここでコメしますね。

脇本陣は確定できるのに、年代が違うということもあり、本陣が確定できないのですね。
イノペディアの横溝さんも言われていますが、忠敬の日記自体にも誤りがあるそうですから、余計に難しくなるみたいです。
私が調べた加古川の脇本陣が、忠敬の日記では「京塚長兵衛」でしたが、実際その家の方の宿帳を見せてもらうと「京塚庄兵衛」でした。
また前も書きましたが、本陣の「鍵屋権兵衛」という人は存在していませんでした。
なにしろ200年も前のこと、謎ときも難しいですね。
「伊能忠敬e資料館」に、いろいろ掲載されていますので参考にされたらどうでしょうか?
水口宿の案内は、矢橋村庄屋 茂平治と庄屋 片岡源十郎だったそうで、そこらからも手掛かりがつかめるかもしれませんね。
年明け、楽しみですね。

 水口宿の本陣、脇本陣の位置につきまして、e史料館のDB登録ミスと思います。それぞれ正しい位置を教えていただければ修正します。
 補足します。
●文化3年10月23日 宿泊宅:本陣鵜飼喜左衛門。第5次測量の帰りで、東海道を測量しています。24日は土山宿までです。
● 文化8年12月27日脇本陣 臼井又右衛門。
第8次 九州2次測量の行き、東海道の測量は終わっているので、無測。移動だけですが測量機器とか隊員も十数名程度であるため一般の旅人より歩程は短く7, 8里程度の移動距離になります。測量時は 3, 4里/日です。28日は草津宿泊。小倉までこの歩程で移動。晴れた夜は天測を行っており、酒飲みは隊員になれませんでした。理由の一つと思います。

Inopedia 横溝さんへ

コメント内容は、1月8日の「伊能忠敬の足跡を求めて」のブログ本文に、追記させていただきました。

「伊能でGO」です。「伊能でGO」の「宿泊家:脇本陣 臼井又右衛門 文化8年12月27日」。この脇本陣の位置は正確に言えば、「伊能でGO」で指定している建物の東隣の建物です。
「伊能でGO」で指定している建物は昔、脇本陣を補佐する役目で使用された事があるそうです。仮にこの建物をA宅とします。A宅の隣にほぼ同じ作りの木造建物があり、ここは最初から脇本陣でした。脇本陣をB宅とします。
現在、市の脇本陣建物として登録されているのは、このB宅の建物です。
「伊能でGO」において、B宅の脇本陣建物にされる方がしっくりすると思いますね。このB宅の玄関の近くの壁に脇本陣の建物であるという簡単な説明文が掲げてあります。
市の資料では、この脇本陣は代々「又右衛門」の名を継いでいて、「脇本陣 又右衛門」や「松葉屋 又右衛門」の名が残されてます。
脇本陣のある場所は、現在「元町」の名で呼ばれていて、旧名「作坂町」の名で呼ばれてます。
「伊能でGO」での「宿泊家:本陣鵜飼喜左衛門 文化3年10月23日」。本陣で「鵜飼」の名で担当していたのは、「作坂町」の脇本陣の近くにあった本陣だけです。市の資料担当の方と話してたところ、本当は「作坂町」の本陣なのを、場所を間違えてしまっているのではないかと思います。
「伊能でGO」で指定している場所は、現在の「本町」の名で呼ばれていて、旧名を「伴町」の名で呼ばれてます。そこにある小さな郵便局に指定しているのですね。
「伊能でGO」においては、「作坂町」の本陣にされた方がしっくりするのではと思います。
本陣と脇本陣の近くの地域に、馬と人足を手配する伝馬がありました。後に西地区にも伝馬を設け、この西伝馬にも本陣を2か所設けたそうです。しかし江戸時代前期に大火災によって損失し、財政と人員不足などの理由で伝馬と本陣の再建はされませんでした。
忠敬さんがこの宿場町に来た時代には、西伝馬も2か所の本陣も無くなってます。なので忠敬さんが泊まった本陣は「作坂町」の本陣しかないのです。
「伊能でGO」での「宿泊家:丸屋金右衛門、万屋伝兵衛 文化5年2月19日」。旅籠屋を営んでいたこの2人は記録に残されてました。資料には「旅籠屋 丸屋 金右衛門」その隣に「旅籠屋 万屋 伝兵衛」が確かにありました。
この2件の旅籠屋のあった場所は、現在の「八光」の名で呼ばれている地区あたりで、旧名を「天王町」から「河内町」と呼ばれているあたりと思われます。
現在の地図に照らし合わせると、「滋賀県信用組合本店」から「たこやき小林さん」あたりにかけてのどこかだと思われます。
「伊能でGO」においては「本陣:鵜飼喜左衛門」と同じ郵便局に指定されてます。しかし「丸屋 金右衛門」と「万屋 伝兵衛」の旅籠屋は、今の郵便局から数百メートル西方の「天王町」から「河内町」にかけてのあたりです。
脇本陣は大目に見たとしても、「本陣」と「金右衛門」「伝兵衛」が場所間違ってますね。
町の様子が今はだいぶ変化してしまいましたからね。「伊能でGO」制作の方々も大変だったろうと思います。

土地勘がないので分かりませんが、よく調べられましたねー、さすがうさうささんです。

Inopedia 横溝さんと連絡を取られて、伊能忠敬の足跡をより正確なものに近づけていって下さい。
だんだん分からなくなってしまうのは目に見えていますから。

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Author:GGチャリダ
自転車と野菜作りで「人生の楽園」的生活をめざします。

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