コメント
具平親王についてです。具平(ともひら)親王の没後は、当時の京都の白河にあった「白川寺喜多院(きたいん)」という寺院に埋葬されたとありますね。
この地一帯を含め、滋賀や和歌山の他にも沢山の広大な土地をあちこちに藤原家の所有地がありました。天皇家は藤原家と関係があるので、天皇家が寺院を建立した後に、僧侶と土地のありかたについて、よく藤原家と言い争いが発生したたそうです。
平惟仲(これなか)の時代に惟仲が、代々受け継いだ土地のうち、滋賀や和歌山などの荘園を、当時の「白川寺喜多院」に寄進してます。
「白川寺喜多院」はその後「寂楽寺(じゃくらくじ)」という名の寺院になります。「寂楽寺」住職は、近江(滋賀)の「園城寺」出身の僧侶が別当に当たってました。「園城寺」は皇室ゆかりの寺院で、「寂楽寺」もそれなりに広い境内だったようです。
しかし「寂楽寺」の別当をする僧侶が居なくなったため、「法勝寺(ほっしょうじ)」という、これも皇室ゆかりの寺院の末寺となりました。
もともとこの一帯の所有者は藤原家でしたが、藤原師実(もろざね)が、白河天皇に献上したのです。白河天皇は自分の土地になったので、皇室ゆかりの寺院を建てまくったものでした。
「法勝寺」の他にもたくさんの寺院が建ち並ぶ区域となり、自然と天皇家や貴族達が住居する区域ともなりました。また葬儀関係や法要などもこの区域で行うことが多かったようです。
この荘園は現在の平安神宮の向かいにある美術館や動物園の一帯にあたり、法勝町など寺の名前がそのまま町名で残ってるところがあります。
「法勝寺」のあった場所は、動物園、岡崎公園、平安神宮の隣あたりだったようです。
「法勝寺」はその後、応仁の乱で焼失し、再建を試みるも寺院の継承者が見つからず一旦廃寺になりますが、天正18年に近江の大津の坂本の「西教寺」に合併されました。
「西教寺」は今でも滋賀を代表する寺院のひとつで、明智光秀の菩提寺として、一家のお墓があることで有名です。
「白川寺喜多院」のあった場所はよくわからないですね。後の「寂楽寺」のことも資料があまりないですね。「法勝寺」と同じ場所かな?「寂楽寺」になったのは具平親王が没後の数年後のことです。
具平親王の住居は「千種殿(ちぐさどの)」と呼ばれていて、六条坊門小路にあったそうです。現在の五条橋の近くだそうです。
具平親王は兵庫県に行くことがあったかどうかわからないですが、住居が京都なのに、お墓が加古川市にあるのは不思議ですね。もう少し調べてみようかな…。
この地一帯を含め、滋賀や和歌山の他にも沢山の広大な土地をあちこちに藤原家の所有地がありました。天皇家は藤原家と関係があるので、天皇家が寺院を建立した後に、僧侶と土地のありかたについて、よく藤原家と言い争いが発生したたそうです。
平惟仲(これなか)の時代に惟仲が、代々受け継いだ土地のうち、滋賀や和歌山などの荘園を、当時の「白川寺喜多院」に寄進してます。
「白川寺喜多院」はその後「寂楽寺(じゃくらくじ)」という名の寺院になります。「寂楽寺」住職は、近江(滋賀)の「園城寺」出身の僧侶が別当に当たってました。「園城寺」は皇室ゆかりの寺院で、「寂楽寺」もそれなりに広い境内だったようです。
しかし「寂楽寺」の別当をする僧侶が居なくなったため、「法勝寺(ほっしょうじ)」という、これも皇室ゆかりの寺院の末寺となりました。
もともとこの一帯の所有者は藤原家でしたが、藤原師実(もろざね)が、白河天皇に献上したのです。白河天皇は自分の土地になったので、皇室ゆかりの寺院を建てまくったものでした。
「法勝寺」の他にもたくさんの寺院が建ち並ぶ区域となり、自然と天皇家や貴族達が住居する区域ともなりました。また葬儀関係や法要などもこの区域で行うことが多かったようです。
この荘園は現在の平安神宮の向かいにある美術館や動物園の一帯にあたり、法勝町など寺の名前がそのまま町名で残ってるところがあります。
「法勝寺」のあった場所は、動物園、岡崎公園、平安神宮の隣あたりだったようです。
「法勝寺」はその後、応仁の乱で焼失し、再建を試みるも寺院の継承者が見つからず一旦廃寺になりますが、天正18年に近江の大津の坂本の「西教寺」に合併されました。
「西教寺」は今でも滋賀を代表する寺院のひとつで、明智光秀の菩提寺として、一家のお墓があることで有名です。
「白川寺喜多院」のあった場所はよくわからないですね。後の「寂楽寺」のことも資料があまりないですね。「法勝寺」と同じ場所かな?「寂楽寺」になったのは具平親王が没後の数年後のことです。
具平親王の住居は「千種殿(ちぐさどの)」と呼ばれていて、六条坊門小路にあったそうです。現在の五条橋の近くだそうです。
具平親王は兵庫県に行くことがあったかどうかわからないですが、住居が京都なのに、お墓が加古川市にあるのは不思議ですね。もう少し調べてみようかな…。
そういえば、先週から今週にかけて時々、GPSの接続がおかしかったですね。ポケモンのゲームやってるんですが、画面に表示されるはずのものが表示されなくて、場面が固まってプレイできなかったというのがありましたよ。
具平親王について、詳しい説明、ありがとうございます。
具平親王が加古川に埋葬されているというのは、たぶん作り話だと思います。
この話の元は、江戸時代に加古川に住んでいた平野庸脩(ひらの ようしゅう)という人がまとめた「播磨鑑」に端を発しています。
「播磨鑑」に、先日の古墳らしき盛り土が、「村上天皇の皇子具平親王の陵也」って書かれているらしいのです。
そして、近くに泊神社という神社があるのですが、そこに宮本伊織の棟札が保存されていて、「余の祖先、人王六十二代・村上天皇第七王子、具平親王より流伝して、赤松氏に出づ」って書かれているらしいのです。
武蔵が具平親王の子孫ってことになるみたいですが、その棟札に書かれた伊織も江戸時代の人間です。
どうもこの話、江戸時代が怪しいです。(笑)
京都に住んでいた人間の墓が加古川にあるなんて考えられませんからねー。
どうして、そんな話になったのか、しかも加古川市教育委員会の立て札まであるんですから(笑)。
この墓が誰のものなのか、いや本当に墓なのかも興味がありますねー。
GPS、今日、自転車に乗ってみると正常でした。
ひょっとして衛星との交信に何か障害でもあったのでしょうかねー?
具平親王が加古川に埋葬されているというのは、たぶん作り話だと思います。
この話の元は、江戸時代に加古川に住んでいた平野庸脩(ひらの ようしゅう)という人がまとめた「播磨鑑」に端を発しています。
「播磨鑑」に、先日の古墳らしき盛り土が、「村上天皇の皇子具平親王の陵也」って書かれているらしいのです。
そして、近くに泊神社という神社があるのですが、そこに宮本伊織の棟札が保存されていて、「余の祖先、人王六十二代・村上天皇第七王子、具平親王より流伝して、赤松氏に出づ」って書かれているらしいのです。
武蔵が具平親王の子孫ってことになるみたいですが、その棟札に書かれた伊織も江戸時代の人間です。
どうもこの話、江戸時代が怪しいです。(笑)
京都に住んでいた人間の墓が加古川にあるなんて考えられませんからねー。
どうして、そんな話になったのか、しかも加古川市教育委員会の立て札まであるんですから(笑)。
この墓が誰のものなのか、いや本当に墓なのかも興味がありますねー。
GPS、今日、自転車に乗ってみると正常でした。
ひょっとして衛星との交信に何か障害でもあったのでしょうかねー?
「播磨鑑」そういえばありましたね。内容を考察する内容の文章の一部を少し拝見しましたが、具平親王と直接関係ないのでスルーしてました。宮本武蔵が具平親王の遠い子孫で、赤松氏の者だとか云々。
具平親王と兵庫県の関係はわからないですが、具平親王の数代先の子孫のひとつが、今の加古川市に定住したそうです。
この古大内(ふるおうち)の地に定住したのは源秀房(ひでふさ)と伝えられていて、この地に「古大内城」を建てて住居したそうです。
秀房は、城のすぐ隣に、あるいは城内敷地内に、「大歳神社」という神社を建てました。しばらくして「大歳神社」境内に具平親王を祭神とする、そのまんま「具平親王神社」を建てました。
「具平親王神社」建立の詳しい理由はわからないですが、秀房は、具平親王からはじまる村上源氏の流れをくむ者の一人であるので、ご先祖様にご守護を願ってのことではないでしょうか。あくまで守護神としてであって、具平親王の塚などの類いではないです。
「古大内城」のすぐ近くに「賀古駅家(かこのうまや)」と呼ばれてた馬駅がありました。電車の無かったこの時代、馬駅に置いてある馬を借りて次の馬駅まで乗って行くというやり方でした。
「賀古駅家」は40頭近くの駅馬を置いていた大規模な駅で、今でいえばさしずめ大阪の駅に相当すると思います。
「賀古駅家」も「古大内城」も発掘が行われていて、出土品がありました。一部ですが遺跡が見つかってます。「大歳神社」境内に、「古大内城跡」の碑が建ってます。
源秀房は、村上源氏の流れをくむ者ですが、同時に赤松氏の祖にあたります。もしかして赤松氏の子孫が、代々具平親王の子孫でもあると言い伝えの内に、部分的にあやふやな言い伝えも混ざってた可能性もあるかも。
「賀古駅家」も「古大内城」も「大歳神社」も、古くから主道路・古山陽道沿い建てられてます。馬駅では毎日大勢の人々が寄ってただろうから、それもあって、変わった話が伝わることもあるかもしれないですね。
「具平塚」だと伝わっている野口の地も古山陽道の近くだし、「具平親王神社」もあるし、赤松氏の子孫も定住してることも考えると、色々な言い伝え話があっても不思議ではないかも。
具平親王と兵庫県の関係はわからないですが、具平親王の数代先の子孫のひとつが、今の加古川市に定住したそうです。
この古大内(ふるおうち)の地に定住したのは源秀房(ひでふさ)と伝えられていて、この地に「古大内城」を建てて住居したそうです。
秀房は、城のすぐ隣に、あるいは城内敷地内に、「大歳神社」という神社を建てました。しばらくして「大歳神社」境内に具平親王を祭神とする、そのまんま「具平親王神社」を建てました。
「具平親王神社」建立の詳しい理由はわからないですが、秀房は、具平親王からはじまる村上源氏の流れをくむ者の一人であるので、ご先祖様にご守護を願ってのことではないでしょうか。あくまで守護神としてであって、具平親王の塚などの類いではないです。
「古大内城」のすぐ近くに「賀古駅家(かこのうまや)」と呼ばれてた馬駅がありました。電車の無かったこの時代、馬駅に置いてある馬を借りて次の馬駅まで乗って行くというやり方でした。
「賀古駅家」は40頭近くの駅馬を置いていた大規模な駅で、今でいえばさしずめ大阪の駅に相当すると思います。
「賀古駅家」も「古大内城」も発掘が行われていて、出土品がありました。一部ですが遺跡が見つかってます。「大歳神社」境内に、「古大内城跡」の碑が建ってます。
源秀房は、村上源氏の流れをくむ者ですが、同時に赤松氏の祖にあたります。もしかして赤松氏の子孫が、代々具平親王の子孫でもあると言い伝えの内に、部分的にあやふやな言い伝えも混ざってた可能性もあるかも。
「賀古駅家」も「古大内城」も「大歳神社」も、古くから主道路・古山陽道沿い建てられてます。馬駅では毎日大勢の人々が寄ってただろうから、それもあって、変わった話が伝わることもあるかもしれないですね。
「具平塚」だと伝わっている野口の地も古山陽道の近くだし、「具平親王神社」もあるし、赤松氏の子孫も定住してることも考えると、色々な言い伝え話があっても不思議ではないかも。
なるほど、村上天皇の皇子の具平親王の子孫である源秀房が古大内に移り住んだので、具平親王伝説が出来上がったのですね。
神社を建てて、具平親王を奉ったことから、あたかも具平親王が加古川で亡くなったような話になったんでしょうね。
源秀房が鳥羽院の勅で移り住んだらしいのですが、その理由は何だったのでしょうね。
古大内城を構えたことによって、凶作や飢饉が収まったって話になると、風土記の「荒ぶる神」の話にも重なっているような気がします。
乾家の古文書とか、泊神社の棟札とか、播磨鑑とか、たぶん伝聞推定の類が話を膨らませてしまっていると思います。
実は私の近くで、加古川の歴史にとても熱心な人がいて、よく飲んだときに話を聞かされるのですが、うさうささんの話でちょっとはその人の相手ができそうです。(笑)
神社を建てて、具平親王を奉ったことから、あたかも具平親王が加古川で亡くなったような話になったんでしょうね。
源秀房が鳥羽院の勅で移り住んだらしいのですが、その理由は何だったのでしょうね。
古大内城を構えたことによって、凶作や飢饉が収まったって話になると、風土記の「荒ぶる神」の話にも重なっているような気がします。
乾家の古文書とか、泊神社の棟札とか、播磨鑑とか、たぶん伝聞推定の類が話を膨らませてしまっていると思います。
実は私の近くで、加古川の歴史にとても熱心な人がいて、よく飲んだときに話を聞かされるのですが、うさうささんの話でちょっとはその人の相手ができそうです。(笑)
「白川寺喜多院」や「寂楽寺」のことはよく分からなかったですが、「法勝寺」については、発掘調査が行われてたそうで、ほぼ境内の規模が判明してます。
「法勝寺」は白河天皇が承保の年(1077年)に、自身の祈願寺として建立したそうです。白河天皇は20歳で延久4年(1072年)に、後三条天皇から譲位され、即位しました。息子の堀川天皇を8歳で即位させたのが応徳3年(1086年)なので、建立は白河天皇が25歳前後ですね。
この時代は、子供を天皇に即位させて、院が後ろで実権を握っていた院政と呼ばれた時代が続きます。
発掘調査で「法勝寺」の境内には多数の堂と、いくつかの僧房が建っていたらしいことがわかったそうです。その中で一番目をひくのが、庭園に建っていた巨大塔です。
この塔は、全体が朱色の八角の九重塔で、高さ81mほどはあったと推定されてます。現存する京都の東寺にある五重塔の56mをかるくしのぐ高さです。
庭園は境内のほぼ3分の1を占める大きなL字形の池があり、池の真ん中に島を作り、この島の真ん中に九重塔が建ってそうです。
庭園跡は、動物園内にある池のあたりにあり、動物園の池にある石組みが、かつての「法勝寺」の庭園のものだと分かってます。
境内の広さは、岡崎公園の隣の満願寺、その隣のホテル施設が建ってる敷地、そして動物園の範囲と、これも発掘調査でほぼ分かったそうです。
具平親王のお墓の場所がわからないのが残念です。お墓として存在していただろうから、どこかにあるはずだと思うのですが…。具平親王の時代はもとより、過去には地震、落雷、もあったし、兵火などで焼かれることもあったので、そのたびに資料がなくなるんですね。
加古川市の「古大内城」に源秀房が住居してた頃は、白河天皇の時代と、白河院(白河天皇が譲位した後)が子供天皇のかわりに実権握った時代です。
白河院は自身の身内に優位な立場の官職の人や軍事関係者を配置したそうなので、秀房が古大内の地を治めるようになったのも、何か関係あるかも。
「法勝寺」は白河天皇が承保の年(1077年)に、自身の祈願寺として建立したそうです。白河天皇は20歳で延久4年(1072年)に、後三条天皇から譲位され、即位しました。息子の堀川天皇を8歳で即位させたのが応徳3年(1086年)なので、建立は白河天皇が25歳前後ですね。
この時代は、子供を天皇に即位させて、院が後ろで実権を握っていた院政と呼ばれた時代が続きます。
発掘調査で「法勝寺」の境内には多数の堂と、いくつかの僧房が建っていたらしいことがわかったそうです。その中で一番目をひくのが、庭園に建っていた巨大塔です。
この塔は、全体が朱色の八角の九重塔で、高さ81mほどはあったと推定されてます。現存する京都の東寺にある五重塔の56mをかるくしのぐ高さです。
庭園は境内のほぼ3分の1を占める大きなL字形の池があり、池の真ん中に島を作り、この島の真ん中に九重塔が建ってそうです。
庭園跡は、動物園内にある池のあたりにあり、動物園の池にある石組みが、かつての「法勝寺」の庭園のものだと分かってます。
境内の広さは、岡崎公園の隣の満願寺、その隣のホテル施設が建ってる敷地、そして動物園の範囲と、これも発掘調査でほぼ分かったそうです。
具平親王のお墓の場所がわからないのが残念です。お墓として存在していただろうから、どこかにあるはずだと思うのですが…。具平親王の時代はもとより、過去には地震、落雷、もあったし、兵火などで焼かれることもあったので、そのたびに資料がなくなるんですね。
加古川市の「古大内城」に源秀房が住居してた頃は、白河天皇の時代と、白河院(白河天皇が譲位した後)が子供天皇のかわりに実権握った時代です。
白河院は自身の身内に優位な立場の官職の人や軍事関係者を配置したそうなので、秀房が古大内の地を治めるようになったのも、何か関係あるかも。
私もちょっとネット検索をしてみましたが、具平親王と直接関係があると思われる白川寺喜多院や寂楽寺については、情報が少ないですね。
法勝寺は、模型から見ても、敷地の広さだけでなく高さもすごかったのがよくわかります。
80mの八角九重塔、今で言えば26階建ての高層建築、威容です。
建物自体も五重塔などと違って、中国の楼閣を模したような感じがします。
だからそれだけ高くできたのかも知れませんが。
加古川の野口あたりは、日本最大の駅家と言われた「賀古駅家」があっただけに、交通の要衝として重要だったんでしょうね。
法勝寺は、模型から見ても、敷地の広さだけでなく高さもすごかったのがよくわかります。
80mの八角九重塔、今で言えば26階建ての高層建築、威容です。
建物自体も五重塔などと違って、中国の楼閣を模したような感じがします。
だからそれだけ高くできたのかも知れませんが。
加古川の野口あたりは、日本最大の駅家と言われた「賀古駅家」があっただけに、交通の要衝として重要だったんでしょうね。