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不正な投稿と判断され、小一時間、悩みました

自転車旅で訪れた青の洞門の禅海和尚のことで、
うさうささんから詳しいコメントをもらいました。

返事のコメントを書いたのですが、
「不正な投稿と判断されました」となって、まったく投稿ができないのです。
何回やってもダメです。

えー、ブログ主の私の投稿が、不正な投稿って?
どないいうこっちゃねん?

で、試行錯誤の結果、やっと投稿できました。

5月20日の「自転車旅と出会い」で、GGチャリダのコメントを見てください。
ある言葉が引っかかって投稿できなかったようです。
その言葉を「…」に換えたら投稿できました。

最初に入れていた言葉は「○す」です。
知らんかったー、コメント欄で使えない言葉があるなんて。

しかし「不正な投稿」という表現、何とかなりませんかねー。
ちょっと意味が違うと思うので、「禁止用語が使われているので」とか、なんとか…。


さて、今日は、午後、ずっと畑に出ました。

コンパニオンプランツとして植えているマリーゴールドの花が咲きはじめました。
DSCF8032.jpg

作業の終わりに、今年初めてのキュウリを収穫しました。
DSCF8036.jpg
え?小さい?
そうなんです、この大きさのキュウリ、まったりして、むちゃくちゃ美味しいのです。
これは、作っている者しか味わえない特権なのです。

代わりと言っちゃあなんですが、ブロッコリーはでかいですよ。
DSCF8040.jpg
ネット栽培ですから、まったくの無農薬なんです。
それでもこれだけきれいに育ちました。

頑張って作業をして、着実に成果が出ることもあれば、
うまく行かないこともありますが、
♪それもまたー じんせいー♪

しかし、コメント投稿でこんなに悩むとは思いもよりませんでした(笑)。

最後までお付き合いいただきありがとうございます。
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コメント

禅海和尚は耶馬溪に来る前に湯布院の興禅院で修行してた。…でもどこも「諸国巡礼の旅の途中に耶馬溪に寄った…」と書いている。…年代は合ってるのだろうかと、再び調べてみました。
福原市九郎は妻のお弓と共に巡礼の旅をしていて、2人で湯布院の興禅院に来たのが享保(きょうほ)15年・1730年頃で、正式に入門し、霊照和尚の元で髪を下ろし禅海という法名をもらいます。
これをもって福原市九郎は禅海という名の坊様になりました。それ以前の巡礼の旅の期間は、坊様としてではなく、ただの一般人としての立場だったということですね。
お弓とはどうなったのかはデータがないのでわからないのですが、禅海和尚となったことで、興禅院にいる期間に承知の上で別れたのではというのが一般的な解釈かなと思いますね。
5年間修行してたと言われ、興禅院を離れ下山したのが享保20年・1735年だそうです。
耶馬溪で洞門を掘る決意をしたのは享保20年、又は、洞門を掘る作業を開始したのが享保20年だそうなので、興禅院を出て間もないですね。この頃で48歳です。
諸国巡礼の旅に出るつもりで興禅院を離れ、最初に同じ曹洞宗である羅漢寺へ参拝のために行ったのかも。巡礼の旅に出たとたんにってとこですね。
洞門が貫通したのは宝暦13年・1763年4月で、28年かかってます。この頃禅院和尚は76歳頃ですね。
死去が1774年で、87歳の頃で、洞門完成からほぼ10年後ぐらいです。
洞門は当初は「樋田の刳抜(ひだのくりぬき)」と呼ばれていて、後に「樋田の隧道(ずいどう)」とも呼ばれてましたが、大正初期には地区の名をとって「青の洞門」と呼ぶこともあったようです。今は正式名として登録されてますね。

「恩讐の彼方に」とは、微妙に重なっていますね。
「恩讐の彼方に」では、享保10年(1725年)に掘り始めて、延享3年(1746年)に貫通したことになっています。
小説では、市九郎はお弓を捨てて、一人で諸国行脚したことになっていますが、実際はお弓を連れての巡礼の旅だったのですね。
しかし、夫婦連れでの巡礼の旅、特にお弓の心中はいかにって、気がします。
そして、お弓と別れて「青の洞門」に立ち向かったのですね。
樋田の刳貫、いくら通行料を取っていたにせよ、やはり感服する偉大な行いだと思います。
詳しい情報、ありがとうございました。

禅海和尚は洞門掘りの参考のために、当時活用されていた水路を実際に見て勉強したようです。なんの知識も無しにいきなり掘り始めたのではないんですね。
今の中津市三光にある「川平間歩(かわべらまぶ)」です。昔、下毛原の住民の強い要望で、中津藩の指揮と計画のもとに、貞享3年・1685年に着工。3年をかけて元禄2年・1689年3月に完成・通水したとのこと。
荒瀬井路はいくつもあります。どの水路も、下毛原地域にのびる水のトンネルです。特に、硬い山岩を掘り抜く「川平間歩」水路の作業は難を極め、中津藩の指揮のもと総勢150人近い人夫が掘り作業に携わったと言われてるそうです。
水路は老化のため、新水路が昭和の期間に作られ、今は新水路が活用されてます。「川平間歩」は残されていて、サイクリングロードの傍の位置にあるようですね。
禅海和尚が参考にした「川平間歩」が中津藩が関わって行なった事業なので、洞門掘りの時も中津藩に何らかの協力をしてもらっても不思議ではないですね。大事業です。藩の協力あれば人も集まるでしょうね。
禅海和尚、色々やってたんだ…。

国道212号線を走っていると、まず右手に「オランダ橋」が目に入り、写真を撮ってから上流の「青の洞門」を探しに行ったのですが、
そのオランダ橋と国道の間に確かに堰がありました。
その堰が「荒瀬井堰」で、荒瀬水路の取水口がそのあたりにあったんですね。
堰は、さざ波立って、きれいだなーと思って見ていたのですが、取水口には気が付きませんでした。
その取水口が「川平間歩」につながっていたんですね。
サイクリング道に沿った用水路は、記憶にあるのですが、間歩は見たような見なかったような…、うーん、残念です。
用水路は、藩としては年貢を集めるためにぜひとも必要な事業だった、しかし、「青の洞門」は、是非とも必要という切迫感はなかったのでしょうね。
そして、禅海和尚が見かねて、着手した、「川平間歩」というものがあったから、できると読めたんですね。
翌日、宇佐を走ったときも、用水路に関する標識をいくつか見ました。
この台地も水に苦労していたんだなーと思いながら、雨の中、ペダルを漕いだことを思い出します。
歴史って、積み重ねですねー。

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自転車と野菜作りで「人生の楽園」的生活をめざします。

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