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花だより

もう待ちきれなくて、次から次へと花が咲いてきました。
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なんや、イチゴかー。
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いえいえ、本当の花だよりは、八幡厄神さんの桜です。
ここは、しだれ桜が多いのが特徴です。
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あと、2~3日かなー?
でも、これ、本当に桜?
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気の早い花見客は、あっちにも…。
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こっちにも…。
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いよいよ本格的な春到来です。

花粉と戦いながら、サイクリングに出かけましょう。
(グシュン、グシュン…。)

つい最近まで、花粉症とは全く無縁だったのになー。
(たらー。)

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コメント

八幡について調べました。
和気清麻呂が大分の宇佐八幡神宮にご神託を伺いに向かったのは769年です。天皇は第48代称徳天皇で、第46代孝謙天皇と同一人物なんですね。
道鏡は、称徳天皇の頃には出世してたみたいです。その道鏡が大ウソつきます。称徳天皇は、道鏡の言うご神託が本物か調べるよう清麻呂公に命じました。
清麻呂公は、大分の宇佐八幡神宮にご神託を伺う為、向かいます。宇佐八幡神宮からのお言葉は、道鏡のウソご神託とは違いました。
清麻呂公は、ご神託の内容を書いたのを2つ作りました。1つは宇佐八幡神宮に納めて、もう1つは持って帰って都の称徳天皇に伝えます。
天皇に伝えた報告と感謝する為、清麻呂公は再度、大分の宇佐八幡神宮に向かいました。道中、腹いせに道鏡が送った手下の者に襲われ、足を大怪我します。そして勝手に道鏡が、大隅国へ流刑を言い渡しました。大隅国は、今の九州の鹿児島県です。
ろくに歩くこともできないのに、短い療養だけで、大分の宇佐八幡神宮詣でを再開します。今度は道鏡の命で暗殺の目的で手下の者を送ります。襲われそうになったその時、雷轟き、どこからともなく多数の猪が現れ、手下の者を蹴散らし、清麻呂公一行を囲み護衛して進みました。
宇佐八幡神宮に着くと清麻呂公の足は回復したそうです。
清麻呂公の頃、大分の宇佐八幡神宮は、八幡大神の一之御殿と、比売大神の二之御殿はあったようです。神功皇后の三之御殿はまだなかったです。
加古川市の宗佐厄神八幡神社は、孝謙天皇が就いたばかりの頃、孝謙天皇の勅願所として建立されたみたいですね。今とはだいぶ地形が違ってたと思います。琵琶湖の湖岸周辺ですら、織田信長の時代は、今とはだいぶ違ってましたからね。

詳しい解説ありがとうございます。
「続日本紀」をしっかりとは読んでいないので、確かなことは分かりませんが、和気清麻呂が道鏡の配下の者に襲われたのは、2度目の宇佐八幡宮詣での時だったんですね。
まー、一度目は、宇佐八幡のお告げを持って帰るのが目的だったので、道鏡も様子見だったのでしょう。
ところが、そのお告げが道鏡にとって都合の悪い内容だったので、結果的に清麻呂を鹿児島に流し、しかも鹿児島から宇佐八幡詣での時に襲わせたということになりますね。

そうすると、宗佐の八幡神社に残っている伝承とは合致しなくなります。
伝承は、「当御社は天平勝宝元丑年(西暦749年)2月、第46代孝謙天皇の勅願所として創立されました。
後神護景雲3年(西暦769年)和気清麻呂公が皇位を奪おうとする僧道鏡の野望をくじくため、宇佐八幡宮へ行く途中、当御社境内にて、道鏡の追手が追いつき、清麻呂公を襲おうとしたとき、当山より一頭の巨猪が飛び出し、追手をことごとく蹴散らし、難を逃れることのできた清麻呂公は無事大任を果たしたと伝えられている。」なんですが、
769年は、1回目の宇佐八幡詣での時なので、宗佐の八幡神社の言い伝えでは1回目の宇佐八幡詣での時に襲われたことになりますねー。
いやー、ますますわからなくなってきました。
たぶん、いい加減な伝承だった可能性が強いと思いますが(笑)。
ただ、この前、宗佐の八幡神社近くで田んぼをされている方と話をしたのですが、イノシシに田んぼの畔をきれいに掘り起こされて困ったと言っておられました。
何はともあれ、一度郷土史家の方にでも聞いてみたいと思います。
<追記>
考えてみますと、宇佐八幡詣でが1回目も2回目も769年なら、いいんですよね。
もともと769年に襲われたのは、正しいようですし、うーん、いろいろ考えさせられますねー。

清麻呂公が称徳天皇の命で大分の宇佐八幡神宮に向かったのは769年7月で、宇佐八幡神宮からご神託を聞いたのが7月11日だそうです。
宇佐八幡神宮を出発して、都に到着して称徳天皇に伝えたのが7月21日だそうです。ここで道鏡の言うご神託が大ウソだと判明します。
清麻呂公が、宇佐八幡神宮へご神託を伺いに行った都との往復は、道中特に何もなかったみたいですよ。
問題はこの後です。文献によっては、私が1つ前にコメントしたのと違う内容もあります。その1つがこうです。
清麻呂公が天皇に伝えた後、ウソがバレた道鏡は怒り、手下の者に清麻呂公を襲うよう命じます。手下の者は、清麻呂公の足を大怪我させます。そして大隅国へ流刑を命じます。
清麻呂公は、流刑の地へ向かう道中、道鏡の手下の者が暗殺しようと襲いかかります。その時、猪が数百頭現れて清麻呂公を守り、清麻呂公を護衛しました。
清麻呂公は、猪群が八幡大神様に違いないと思い、大分の宇佐八幡神宮へ詣でます。神殿に着くと足の大怪我が治りました。
身の安全の為に、清麻呂公はそのまま大隅国へ行きました。…というものです。
称徳天皇は次の年の770年8月に亡くなります。すぐに光仁天皇が即位され、清麻呂公は大隅国から呼び戻されました。清麻呂公が都に戻ってきたのが9月だそうです。次の年の771年に、元の職に復帰して仕えたそうです。
前のコメントで、清麻呂公が京都から出発して…と書きましたが、まだこの時代は、都は奈良だったんですね。すみませんでした。

769年に2回、宇佐八幡宮に詣でているんですね。
ということは、年号的には合っていることになります。
ただ、宗佐の八幡神社の縁起は、1回目のような記述なのでやはりおかしいです。

清麻呂は10日間で、大分から奈良ですか?
距離にして650キロ、時速4キロとして、1日16時間以上歩き続けていますねー。
しかも、奈良→大分、大分→奈良、奈良→鹿児島ですから、これだけ歩いたら、怪我をさせられなくても…、と考えてしまいます。
いやー、とても面白いです。

九州では、奈良伝承バージョンとは別バージョンがありました。
清麻呂公が宇佐八幡神宮のご神託を称徳天皇に伝えたところまでは、ほとんど同じです。九州伝承バージョンの代表がこうです。
ウソ神託がバレた道鏡は怒り、都の地で手下の者を使って清麻呂公を襲わせて、足を大怪我させました。そして大隅国へ流刑を命じます。
清麻呂公は大隅国へ行きます。船に乗ると、まず宇佐の海岸に到着します。すると猪大群が現れて清麻呂公を迎えました。清麻呂公が一頭の猪にまたがると、猪は凄いスピードで駆け走り、大分の宇佐八幡神宮へ運んでくれました。
清麻呂公が神殿に詣でると、神様からお告げがありました。企救郡湯川郷の山のふもとに湧き出ている湯に浸かりなさい。傷が治るだろう。という内容です。今の福岡県北九州市小倉です。
今度は神馬をかりて、湯川郷目指します。そしてこの地で療養生活をしていると、足は完治して歩けるようになりました。嬉しくて、山を登り、宇佐八幡神宮の方向を向い、感謝の思いを送ったそうです。足が立ったという意味で足立山と呼ぶようになったということです。
足が完治すると、清麻呂公は大隅国へ行き、そこでおとなしく過ごしていたそうです。称徳天皇が亡くなり、光仁天皇が即位されると、都に戻ってくるように言われたので、都へ帰ることができた。…というものです。
九州伝承バージョンでは、清麻呂公が、手下の者に暗殺されそうになったという部分がないのがありましたね。
奈良伝承バージョンは人間関係についてのが多く、九州伝承バージョンは清麻呂公が九州の地での行動についてのが多いという特徴があるようです。

なるほど、よく調べられましたね。

九州バージョンで、清麻呂の行動がよくわかります。
そして奈良から宇佐が海路なら、宗佐は通るはずがありません。
でも1回目は、陸路だったのでしょうかねー。

若いころ、宇佐八幡宮に行ったことがありますが、確か神馬がいたような…、いや、あれは内宮だったかな?(笑)
しかし、船を使い、馬を使い、すごい行動力、まさに超人です。
それぞれに地名が言い伝えられているのもなるほどですね。

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GGチャリダ

Author:GGチャリダ
自転車と野菜作りで「人生の楽園」的生活をめざします。

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